「それで大地。今日のこと、忘れてないよね」
青空〈そら〉の言葉に、大地が一瞬固まった。
カレンダーの赤丸を見て、「そうだった……」そうつぶやいた。「やっぱりか。迎えにきてよかったよ」
「悪い。色々あってすっかり忘れてた」
「今日は結構な人数だからね、人手はいくらあっても足りないんだよ」
「何時からだっけ」
「14時から。だから慌てなくていいよ」
大地と青空〈そら〉が当たり前のように話を進める。自分には関係ないことだ、そう思った海が、カップを洗おうと立ち上がった。
その時青空〈そら〉が、不自然に声を上げた。「そうだ! 人手ならここにもいたんだった! ねえ海ちゃん、暇だったらなんだけど、手伝ってくれないかな」
「手伝いですか?」
「うん。さっきも言った通り、今日はちょっと忙しくなりそうなんだ」
「お世話になってますし、私なんかでも手伝えるのでしたら」
「よーし! 人員一名ゲット!」
「おいおい青空姉〈そらねえ〉、強引に進めるなよ」
「いいじゃんいいじゃん。これもお互いを知るいい機会でしょ? あ、そうだ大地。煙草きらしてるんだ。買ってきてくれない?」
「本数、守ってるよな」
「大丈夫だって。ちゃんと守ってるよ」
「分かった。じゃあちょっと買ってくる。海は大丈夫か?」
大地がそう聞くと、海は笑顔でうなずいた。
「子供じゃないんだから。大丈夫だよ」
「ちょっとちょっと。私と二人にするのが危険みたいじゃない」
「みたいじゃなくて、危険だからだよ。いいか海、変なこと聞かれたら無理に答えなくていいからな。すぐ帰ってくるから耐えるんだぞ」
「いいからさっさと買ってこいって。このままだとお姉ちゃん、ニコチン切れで倒れちゃう」
「分かった分かった。じゃあ行ってくるな」
* * *「さてさて……ほんと、厄介事に愛されてるよね、あいつ」
青空〈そら〉がそう言って、煙草をくわえ火をつけた。
なるほど。自分と二人で話したくて、大地を追い出したんだ。そう思い、海が表情を引き締める。「さっきも言った通り、詳しい事情を聞こうとは思ってないよ。海ちゃんが家出少女だってことも、大地が咄嗟についた嘘だって分かってる」
「……」
「教えといてあげるよ。あいつね、嘘をつく時は視線を右下に下げるんだ。ほんと、分かりやすいんだから」
「じゃあ青空〈そら〉さん、どうして私を受け入れてくれたんですか」
「それはね、海ちゃんのこと、気にいったってのが一番の理由」
「……」
「どんな事情かも、どうやってあいつと出会ったのかも知らない。でも海ちゃんを見てたらね、面倒みたくなるのも分かるなって思ったの」
「……ありがとうございます」
「あとはそうね、あいつが他人に興味を持ったみたいだったから。これって結構レアなんだよ」
「レア、ですか」
「うん、そう。付き合っていけば分かると思うけど、ほんとあいつ、他人に興味がないんだから」
青空〈そら〉にそう言われ、なるほどと海は思った。
昨日から今日まで。確かに彼は、私の本質に迫ろうとする行動を一切見せてない。 私が死ぬつもりだと言っても、引き留める素振りも見せない。それどころか、いつ死ぬんだとぶっきらぼうに聞いてきた。 そんな彼が、私に興味を持ってる? 否定しようとしたが、それならどうしてあの時、男から私を助けたの? そんな疑念が脳裏をよぎった。「どんな理由であれ、あいつが自分から面倒をみると言った。だから私は信じた。姉だからね」
そう言った青空〈そら〉の笑みに、海もつられて笑った。
「……自分のこと、出来れば青空〈そら〉さんにも打ち明けたいって思ってます。でも……すいません、今はまだ勇気がなくて」
「出来た時でいいよ。私は基本、無理強いしない主義だから。どんなことでも相手の気持ちを尊重したい。だって海ちゃん、立派な大人なんだし」
こういう考え方、大地と同じだな。流石姉弟、そう思った。
「あの、それでなんですけど……これからどこに行くのですか?」
「ん? ああそうだね、説明しとかないとね。私たちは今から、喫茶店で接客するの」
「接客……ですか」
「苦手?」
「苦手ってほどじゃないですけど、得意でもないって言うか」
「そうなんだね。でも大丈夫だよ。スタッフは私と大地、そしてオーナーの三人だけ。それに今日のお客さんは、海ちゃんが想像してるような人たちじゃないから」
「それってどういう」
「行けば分かるよ。それにまあ、その場で無理って思ったら、休んでていいからさ」
「は、はあ……」
行き当たりばったりと言うか、出たとこ勝負と言うか。
この人やっぱり面白い。そう思い、海はうなずいた。「分かりました。お役に立てるか分かりませんが、頑張ってみます」
「あはははははっ、元気があってよろしい。でもまあ、無理しないようにね」
そう言って二本目の煙草をくわえた時、大地が帰ってきた。
「ただいま……って青空姉〈そらねえ〉、なんで吸ってるんだよ」
「やばっ……もう帰って来たんかい」
「早くて悪かったな。海が心配だったからな」
「ほおおっ、お優しいことで」
「うっせえよ。ほら煙草」
「サンキュー」
「それ、二本目だよな。残り三本だからな」
「わーってるって。ちゃんと守ってますよ」
「海、大丈夫だったか?」
「うん。色々お話し出来て楽しかったよ」
「変なこと聞かれなかったか?」
「大丈夫だって。心配してくれてありがとう」
「おうおう、アラフォーの姉の前で見せつけてくれちゃって」
「だーかーら、そんなんじゃないって言ってるだろ」
「あ、そうだ海ちゃん。もうひとつ、大事なこと聞きたかったんだ」
「人の話を聞けって」
「うるさいうるさい、弟は少し黙ってろ。海ちゃん、嘘はなしで正直に答えてほしいんだけど」
「なんでしょう」
「出会ってから今までで、こいつ何回死ぬって言った?」
「ぎっ!」
「え……」
「いやね、こいつってば、口癖のように死にたいって言うんだよ。そんな気がない時でも、それがさも当然なような顔で口にするの。
でもね、言霊〈ことだま〉ってあるじゃない? 嘘でもそんな言葉を吐いてたら、そういう方向に人生が進んでいくと思うんだ。だから私、いつもこいつを見張ってるの」「……」
自分も今、そうなんです。そう思った。
「楽しい、嬉しい、幸せだ。無理にでもそういう言葉を口にしてたら、気持ちもそういう風になっていく。マイナスの言葉を口にしてたら、どんどん心が沈んでいく。そう思わない?」
「そ、そうですね……言われてみたら、確かにそんな気がします」
「でしょでしょ? それでどう? こいつ、何回死ぬって言った?」
「ええっと……」
さりげなく大地に視線を移すと、大地は諦めた様子で両手を上げた。
「こいつのことは気にしなくていいよ。大丈夫、逆恨みなんて私がさせないから」
「具体的な回数までは覚えてませんが……そうですね、何回か口にしてました」
「よろしい、よく言ってくれた。おい大地、あれ持ってこい」
「分かったよ」
大地がため息をつき、スチール製の貯金箱を青空〈そら〉に渡した。
「海ちゃん、だいぶあんたに気を使ってるみたいだね。かばいたいって気持ちがひしひしと伝わってきた。そんな海ちゃんに免じて、5回で許してやる」
「5回もかよ」
「何言ってるのよ。今の海ちゃんの言い方だと、絶対それ以上言ってたでしょ」
「はいはい、5回分ね」
そう言って、大地は財布から2500円を取り出し、中に入れた。
「青空〈そら〉さん、それって」
「これは罰金なんだ。一回死ぬって言うたびに500円」
「なるほど……」
「この貯金箱で何個目になるのかな。とにかくこいつ、何かあったらすぐ死にたいって言うから。罰金制にでもしないと、際限なく吐きまくるんだ。
そういう訳だからさ、こいつのこと、しっかり見張っててね。罰金がたまったら、海ちゃんの好きに使っていいから」「おいおい、何勝手なこと言ってるんだよ」
「いいえ、これは決定事項だから。今日この時、この瞬間に私が決めました」
「全く……」
笑顔で話す青空〈そら〉。呆れ気味にため息を吐く大地。
二人を見ながら、海はいつの間にか笑顔になっていた。 ここにいると、気持ちが温かくなっていく。ほんと、不思議な人たちだな。 そう思いながら。一年後。 青空〈そら〉の誕生日であり、一周忌にあたる1月19日。 有料老人ホームがオープンした。 施設長は浩正〈ひろまさ〉、大地は管理者。 海は喫茶「とまりぎ」の責任者として、従事することになった。 * * * この日は運動場を開放し、オープンを祝うたくさんの客が訪れていた。「おめでとう、浩正くん」 車椅子の下川が微笑む。「ありがとうございます。何とか無事、オープンすることが出来ました」「青空〈そら〉ちゃんもきっと、天国で喜んでるわ」「そうですね。でもね、下川さん。天国は勿論ですが、ここにも青空〈そら〉さんはいますからね」 そう言って入口に掲げられた看板を指差す。「そうね、そうだったわね」 有料老人ホーム青空〈そら〉。 それがこの施設の名前だった。「浩正さん、利用者さん一名、到着されました」 そう言って大地が門まで走り、車を誘導する。「すいません大地くん、お願いします」「任せてください」 大地が笑顔で答え、車から降りてきた利用者に手を差し出す。「ありがとう。随分賑やかね」「ようこそ青空〈そら〉へ。歓迎します」 海は運動場を走り回り、スタッフたちと接客に当たっていた。「海ちゃん、本当におめでとう」「ありがとうございます。山田さんも、今日はゆっくりしていってくださいね」「海ちゃん、本当にしっかりしてきたわね。これなら新人さんたちも安心ね」「あはははっ、私、最初の頃はおっかなびっくりでしたからね」「でもここを任されてからの海ちゃん、本当に見違えちゃって。格好いいわよ」「あはははははっ、そんなに褒めても何も出ませんよー。あ、でも紅白饅頭はありますから。後で召し上がってくださいね」 そう言って後輩スタッ
買い物から帰ってきた海が、呆然と大地を見つめる。「何……してるの……」 大地は台所で料理をしていた。「おかえり、海」 そう言って振り返った大地を見て、海の目に涙が溢れた。「どうしたどうした。泣くほど寒かったのか? 早く入ってあったまれよ」 海の元に進み、そっと抱きしめる。「そろそろ俺の料理が恋しいんじゃないかと思ってな。久し振りに作ってみた」「大地……」「いっぱい迷惑かけたな。ごめん」「もう……大丈夫なの?」「ああ、大丈夫だ」「……終わったの?」「ちょっとばかり強引だったけどな。何とかなったと思う」「……」「海?」「もう……死にたいって思ってない?」「思ってないというか、死ぬのが惜しいと思った」「……」「死んだら海のこと、こうして抱けないからな」「馬鹿……」「それに……これからだろ? 俺たちの人生は」「大地……」「とにかく手を洗って座ってろよ。全部ちゃんと話すから」 そう言うと海は肩を震わせ、大地を抱きしめた。「うわあああああっ!」 大地は微笑み、囁いた。「愛してるよ、海」 大地の目にも、涙が光っていた。 * * *「そんなことしたんだ、あはははははっ」 風呂から上がり、肩を並べて座り。 ビールを手に、海が笑い転げた。「……そこ、笑うところか?」
カーテンを開け。 煙草をくわえ、火をつける。「……」 大地は混乱していた。 海に促されて始めた自己問答。それが思いもよらぬ方向に進んでいた。 人を信じない。誰とも関わらない。それが自分の哲学だった。 それなのに今。実はそれを渇望していたという結論に辿り着いてしまった。 それは大地にとって、驚愕の事実だった。 本当は俺、人と関わりたかったのか? そう思い、眉間に皺を寄せ。白い息を吐く。 そして思った。 自分にとって、深く関わりたいと思えた他人。 青空〈そら〉。浩正〈ひろまさ〉。 そして海。 青空〈そら〉は死んだ。二度と関わることが出来ない。 その絶望は自分にとって、死を選択するに十分なものだった。 浩正さん。 生まれて初めて、尊敬出来ると思えた他人。 思慮深く、人の痛みに理解を示し、手を差し伸べる聖人のような男。 姉を愛し、共に生きることを誓ってくれた人。 だけど俺は彼に対して、いつも心を閉ざしていた。 もし、この人にまで裏切られてしまったら。二度と立ち直れないと恐れたからだ。 * * * 海。 星川海。 こいつと出会ってまだ、数か月しか経っていない。 それなのにこいつのことを、ずっと昔から知っているように思っていた。 この世界に絶望している同志。 最初はそれだけだった。そう思っていた。 だが青空〈そら〉は言った。『あんた、そこまでお人好しだったっけ。いつものあんたなら、後をつけてまで助けるなんてこと、した?』 その言葉に動揺した。確かに俺らしくない、そう思った。 海がどうなろうと、それはあいつの選択だ。 何より海は俺と同じく、近い内に死のうとしてるやつだ。そんなやつがどうなろうと、自分には関係ないはずだっ
俺が生きる意味。死ぬ意味。 それはなんだ? * * * 海は言った。俺の根底にはいつも、絶望があると。 その意味を読み解いた時、何かが変わると。 面白いやつだ。 そんな発想、思いつきもしなかった。 これまでずっと、死を渇望しながら生きてきた。 どうしてだ? 毎日飯は食えるし、欲しいものを買う余裕だってある。 自分の時間もあるし、仕事だってそれなりに楽しい。 煩わしい人間関係も持ってないし、特にストレスを感じることもないはずだ。 それなのに。 どうして俺は死を願ってたんだ? * * * 青空姉〈そらねえ〉が死んだ。 俺にとって唯一とも言える、この世界の光。 それが失われ、俺は絶望した。 ある意味壊れた。だから死を実行しようとした。 だが海は言った。 本当にそれだけなのかと。 確かに俺は今まで、青空姉〈そらねえ〉が生きていたにも関わらず、ずっと死を考えていた。望んでいた。 いや。 海に言わせれば呪いか。 青空姉〈そらねえ〉が死んだことで、その思いが強くなったのは確かだ。 しかし俺はそれ以前から、ずっと前から死にたいと思っていた。 それは何故だ? * * * 親父が憎かった。 俺が逆らえない弱い存在と分かった上で、自分のストレスをぶつけてきたあのクズが憎かった。 母親が憎かった。 いつも俺を罵倒し、心を殺してきた悪魔が憎かった。 お前たちは親という立場にも関わらず、俺たちを育てるという最低限の仕事もせず、ただただ見下し、排除することを望んでいた。 そんなお前たちを、俺はただの一度も親だと思ったことはない。 お前たちのおかげで青空姉〈そらねえ〉は右目を失い、心に深い傷を負った。 お前たちがいなければ、俺た
次の日。 目覚めてからずっと、大地は泣いていた。 * * * 昨日、異様なテンションで喋り続けていた大地。 浩正〈ひろまさ〉の忠告を思い出し、海はずっと緊張していた。 夜、大地が眠りについた時。乗り切れたと安堵した。 青空〈そら〉さんが守ってくれた、そう信じ涙した。 それなのに。今日は打って変わり、泣き続けている。 この不安定な情緒こそ、今の大地なんだ。 丸裸になった彼の心。 まるで獣に睨まれ、怯えている小動物の様だ。 泣き続ける大地をそっと抱きしめ、海は囁いた。「どうして泣いてるの?」「分からない……自分のことなのに、分からない……」「そうなんだ……でもそれ、普通なんじゃない?」「そう……なのか?」「だってこれ、大地が言ってたことだもん」「俺、なんて言った?」「自分のことが分からない、他人の方が自分を分かってる。そんなの当たり前だって言ってた」「ははっ……そんなこと言ったのか、俺」「大地は今、何を考えてるの?」「それは……」「泣いてる理由が分からない、そう言ったよね。だから質問を変えてるの。今、何を考えてる?」「……怒らないか」「怒らない。約束する」「……死にたいんだ」「そっか……」 笑みを崩さず、海は抱きしめる手に力を込めた。「青空〈そら〉さんがいないから?」「だと……思う……」「寂しい?」「ああ、寂しい……」
それから数日が経ち。 禁断症状がかなり治まっているのを感じた。 短い時間ではあるが、夜も眠れるようになっている。 煙草の本数に気をつければ、頭痛も酷くならなかった。 少しずつ、食事も摂れるようになってきて。 肉体的にかなり楽になってきたと実感した。 しかし。 入れ代わるように、今度は心が蝕まれていった。 言い様のない不安。恐れ。 それらが全身にまとわりついていた。 * * * 体が震える。 ジャケットを出して羽織る。 しかし震えは治まらなかった。 なんなんだ、これは。 大の男が部屋で一人、何を震えてるんだ? 禁断症状の時とは違う、体が自分のものでないような感覚。 なんでこんなに寒いんだ? そう思いスマホを見ると、気温は20度になっていた。「はああっ? 壊れてんのか?」 しかしすぐに思い直した。 違う、壊れてるのは俺の自律神経だ。 そう言えば昨日、天気予報で5月並みの陽気になると言っていた。 そう思うと、急に暑く感じてきた。 慌ててジャケットを脱ぐ。シャツを脱ぐ。 全身に汗がへばりついていた。 大地はタオルで汗を拭い、新しいシャツに袖を通した。「……また……寒くなってきたな……」 再びジャケットを羽織り、苦笑する。 寒いんだか暑いんだか、よく分からん。 色々と……壊れてるんだな、俺。そう思った。 そして。 嫌な感覚を覚えた。 何かに監視されているような感覚。 視線を感じ、クローゼットを見つめた。「……」 何も起こらない。当たり前だ。 この家に住んでるのは俺と海。他に誰もいない。 海は今、買い物に出